不思議な毎日~人生迷走中?

私の人生で起こった不思議なこと~不思議・雑記

第82話 信念の人

今回のお話は、第82話「信念の人」です。

 

中学2年の技術の先生に関するお話です。まず、最初の授業で自分の名前を黒板に書かれました。「まず、初対面の方々には、最初に私の下の名前を紹介することから初めています。苗字はありふれていますがね・・・」と言われて自分の下の名前を黒板に書かれました。「甲子生です。」「(生徒一同)オー」「皆さん、オーと言われるでしょう。私、それが好きなんです。」「でもね、私野球があまり好きではないので、正直自分の名前をあまり気に入っていません。」「別に野球を悪いと言っているわけではないですよ。立派なスポーツだと思いますよ。皆さん化学のA先生をご存知ですか?」(半分くらいの生徒が手を挙げました)「ご存知の方、そうでない方がいらっしゃる。

A先生は大変野球がお好きですよね。A先生は私に名前が羨ましいとおっしゃる。でも、私はあまり・・・」

 

その技術の先生(以下、B先生とします。)は、定年後に非常勤講師として勤務されている先生でした。話は逸れますが、技術の先生はたいてい数学の教員免許も持っておられます。(必ずしも持っている訳ではありません。)私自身、数学は大好きでしたが、技術はあまり得意ではなく、嫌いな教科でした。

 

あるとき、こんなお話をされました。「皆さん、教員にとって一番難しい仕事は何だと思いますか?」「はい」と一人の生徒が手を挙げました。「生徒を東大に通すことですか?」「いやいや、そんなことよりももっと難しい仕事があります。」「それはね、ずっと授業中に横を向いている生徒を前に向かせることです。」「えって思うでしょ。それは無理はありません。でもね、私ここの学校以外にも女子高に勤めたことがあるんですけど、30人くらいの先生方がそれをやろうと思って断念されたんですよ。私はできたんですよ。」「それとね、東大に通すこと。一見難しく見えるでしょ?実はね東大に行く生徒のほとんどは自分で勉強します。だからね、よっぽどずっと横に向いている生徒を前に向かせることの方が大変なんです。うそだと思ったら、皆さん一度教員の立場になってやってみられるといいと思いますよ。そんなに簡単ではありませんから・・・」

 

私もその後、教える立場になりました。B先生のおっしゃることは本当で、授業を全く聞く意志のない生徒に授業を聞かせるのはとても大変です。また、ある程度やる気のある生徒を合格に導くのはそれほどではありません。自分から勉強するのですから。

 

また、B先生は自分自身があまり体が丈夫ではなく、たびたび体調を崩しがちであること、そして自分の余命はあまり長くないのではないかともおっしゃいました。ただ、無理をせず養生するようにはしているともおっしゃいました。

 

ある時、事件が起きました。B先生は何があっても授業中笑顔を絶やさない先生でした。ただ、ある生徒が授業中立ち歩いて話している様子を見て堪忍袋の緒が切れてしまったのです。「こら。あなたがね、授業を聞かないのは私は一向にかまわないよ。ただね、彼はね、聞いているんだよ。そんな人をね、邪魔だけはするな。」いつも笑顔を絶やさないB先生が怒る様子をみて、生徒一同みんなびっくりしました。B先生はその後、いつもの笑顔に戻り、再び授業を始められました。

 

B先生には中学2年、3年の2年間学びました。最後の授業のとき、こんなお話をされたのを覚えています。「私ね、日本はおそらくよくない方向に向かっていくと思います。今はね確かに繁栄していて平和ですよ。皆さんが大きくなられた頃には分かりませんよ。」

 

B先生の預言は的中しました。B先生のおっしゃる通り、私が成人した頃、バブルが崩壊し、日本はなかなか負の連鎖から立ち直れない状況が続きました。

 

それから30年近く経ってB先生の訃報を地元の新聞で拝見しました。90歳まで生きられたようです。自分が身体が丈夫でないので養生しながら生きられたようでした。一方、野球好きだった、化学のA先生はいつも元気そうでした。私はA先生には高校時代に習いました(私の学校は中高一貫校)。当時A先生は50歳前後でした。A先生の訃報を目にしたときは大変驚きました。70歳で亡くなられたのです。誰がどう見てもA先生はお元気そうでした。人生、どこでどうなるか分からないものですね。

第81話 和ませ上司 part2

今回のお話は、第81話「和ませ上司 part2」です。

最近、ある有名な落語家さんとご縁ができました。その方の写真を拝見すると、昔一緒に仕事をさせていただいた、上司のGさんとそっくりなのです。この上司のことは以前に「第14話 和ませ上司」で書きましたので、今回はそのお話を編集して書きたいと思います。

 

今から15年ほど前のこと、私は神戸市の企業に勤務しました。その頃はまだ「働き方改革」などといった言葉が無い時代。ようやく企業のコンプライアンス教育などが始まったばかりでした。その時、一風変わった上司のGさんと働くことになりました。Gさんとは神戸で働いたのですが、もともとは私と地元が一緒で、学校の先輩でもありました。

 

会社に入社にした最初の一週間は地元で研修を受けました。その翌週からは神戸で働くことになっていました。神戸で働くといっても週末日曜日の夕方に神戸に向かい、週末金曜日の夕方に地元に帰ってくるという、出張型の勤務。かなりハードなスケジュールで普段は朝7時から夜9時頃まで働くという勤務スタイルでした。

 

私とGさんは神戸に向かう新幹線に乗る前に地元の駅で初めて会いました。駅で会うまではお互いに会ったこともありません。事前に会社で顔写真を渡され、携帯番号を教えられ、初めて駅で顔を合わせるという、極めて荒っぽい形での初対面。正直、お互いの第一印象はあまりよくなかったような気がします。

 

初回は月曜日の朝に神戸に向かいました。Gさんは会った早々挨拶をし、新幹線に乗り込むと「私は疲れているから」といって眠りにつかれました。新幹線の中ではお互いにほとんど話もしなかったような気がします。新神戸駅に着くと、地下鉄の駅まで向かいます。このときのGさんの足が半端なく速いのです。私は途中Gさんを見失ってしまいます。するとGさんから携帯に電話があり、居場所を伝えられます。漸くの思いで追いつくと、またもの凄いスピードで走り始められました。見失うことが3回くらいあったような気がします。私はそれ以前にも神戸に来たことがあるものの、それ程詳しい訳ではなく、いつかはぐれてしまうのではないかと思いました。やっとの思いで地下鉄の駅に着き、乗り込みました。神戸の地下鉄は、私の地元では考えられないほどの混雑ぶりでした。まさに「人、人、人」といった感じでした。

 

会社に着くと、一緒に働く人たちに挨拶を済ませました。この時出会ったのが、その後親友となるHさんでした。Hさんは私と同じ県出身で島育ちの人。この当時から日本の企業では男女、年上年下関わらず、相手を「~さん」と呼ぶことが浸透してきました。

Gさんはその日仕事を終えると私の元にやって来て、「今から神戸の街を案内するから」と言われ、私を神戸観光に連れて行きました。食事をした後、港の辺りを案内されたような気がします。この時、「私に仕事のことを聞いてもよく分からないから、誰か他の人に聞いて」と言われ、私はどう返答していいか分かりませんでした。

 

もちろん、普段はGさんは普通に仕事をされていました。ただあまり仕事人間だと思われたくないようでした。水曜日は比較的仕事が早く終わるので、定時を迎えると私やHさんを連れて神戸散策に出掛けました。仕事のときの雰囲気と違い、Gさんはいきいきとしています。

 

HさんはGさんを喜ばせようとよく美味しい店を探してきました。Hさんは「そごう三宮店に美味しい店がある」と見つけてきたのですが、Gさんはあまりお気に召さない様子。Hさんはがっかりし、「あまりよくなかったですかね・・・」

 

Gさんはあくまでも課長です。もちろん天敵もいました。要領で上り詰めてきたK課長が天敵でした。K課長もG課長に嫌われていることは周知の事実でした。K課長はG課長に会うと「Gさん、そんなに私を嫌わないで下さいよ。」G課長ははっきりと「私はあんたが嫌いなんだ。」とはっきりと言っていました。ただ、G課長は社内の問題があるとK課長と協力していく、そんな優しい人でもありました。

 

かなりの過酷勤務であったため、段々と体調に異変を感じる人も出てきました。私もその例に漏れず、ついていけなくなり退職しました。Gさん、Hさんを始め数人がお別れ会を3度開いてくれました。お別れ会を3度開いてくれた職場は聞いたことがありません。

 

Gさんはその後、年賀状を下さっていましたが、2年前に途絶えました。今から5年くらい前に街の中央を歩いているとバッタリGさんに出会いました。Gさんは「こうやって週末になるとリュックを背負って街の中をぶらぶらと一人で歩くんだ。仕事は早期退職したよ。」その時、私は友人と一緒だったため、あまり話すことができませんでした。それがGさんと直接話した最後になりました。

 

Gさんはきっとどこかで元気にされていると思います。また、ばったりと東急ハンズの前辺りで出会えたらと思います。

 

 

 

 

第79話 25年後の真実

今回は第79話「25年後の真実」です。

 

私の頭にふと25年前の教え子のことがよぎりました。今から25年前、私は地元から少し離れたところにある大手進学塾の分校に勤務していました。大手進学塾というと聞こえがいいかもしれませんが、分校となると個人塾を少しだけ大きくしたもので、数年後には廃校の運命にありました。

 

そのとき、出会った生徒がいがぐり頭のC君。とても勉強熱心で、講師の方から勉強をするのを少し控えるようにいうぐらい頑張り屋さんだったのです。私が受け持ったのが中学受験前の1年半。専門教科に加え、もう1教科受け持ち、計2教科受け持っていました。

 

彼の行きたい学校を聞くと、何と私の母校を志望しているとのこと。何とか応援したい気持ちが増しました。受験直前に分校の校長と彼に色々とアドバイスをしました。一番は体調管理が大事だということ。ところが、彼は受験直前に体調を崩してしまったのです。

 

彼は受験が終わり、試験結果を塾に持ってきました。私はその日出勤日ではなかったため、校長が代わりに採点。C君は私の受け持ち科目のうちの1教科が大の得意科目でしたが、その科目のできがよくなかったようです。翌日出勤してきた私に校長は「これでは厳しそうだね。多分だめだろうよ。」

 

私は全教科の問題を拝見しました。確かに彼の得意教科は駄目のようでしたが、私の受け持ちのもう1教科はよくできていました。私は「これなら何とかいけそうな気がします。校長は「いや、私は駄目だと思うけどね。」そこに割って入ってきたのが事務員さんでした。(事務員さんといってもその中では最年長の女性の方です。)「2人ともおよしなさいよ。校長、先生(私のこと)が言われるのを信じてみなさいよ。」校長も

「はい、分かりましたよ。」と渋い返事でした。

 

合格発表の当日、彼は見事に志望校に合格。晴れて私の後輩になりました。その日の夜、私の家に彼から電話がありました。(当時私はまだ携帯電話を持たず。)「先生、俺受かりましたよ。有難うございました。」「しっかり頑張ってね。また、いつか会おう。」

 

彼は翌4月から中学生になりました。入学後に1度電話がありました。「先生が昔お世話になられた先生が僕たちの学年主任の先生です。社会科のT先生。」「T先生。1年、2年の担任の先生だ。懐かしいな。」これが彼との最後の会話でした。その後、彼も私もお互いに連絡を取り合うことはありませんでした。

 

私は卒業後も時折母校を訪ねており、T先生にC君のことを聞いてみました。「おー、Cか。あいつは元気にやっとるで。勉強もようできるしな。あいつはサッカー部で。」

そこに同席していたのがサッカー部の顧問で私が学生時代に数学を習っていたD先生でした。「あいつは悪いで。確かに頭はいいけどな。」(ちなみにT先生とは私はいまだに交流があります。)

 

彼を教えてから25年経ったある日のこと、私は偶然彼の名前を目にしました。ある有名サッカーチームの事務方の部長になっており、ラジオにも出演しているようです。

 

彼がサッカーの道に進んだことは全く知りませんでした。そしてその分野の有名人になっているとは・・・彼は人懐っこい性格でしたので、適任だと思います。彼なら更なる活躍が期待できるでしょう。

 

25年も経つと人はどう変わっているか分からないものですね。おそらく私のことはとっくの昔に忘れ去られていることと思います。私の25年後はどうなっているか、少しだけ楽しみです。

第78話 奇人変人数学者 part2

今回は第78話「奇人変人数学者 part2」です。先日、世界国際数学連合(IMU)の総裁に日本人数学者、中島啓さんが選ばれました。中島さんの快挙は、沈みゆく日本にとって大きな快挙です。今回はこれを記念して「奇人変人数学者 part2」を書きたいと思います。

 

私は大学時代数学科に属していましたが、幾何学を担当していたのがS教授。その演習を担当していたのがY助手(今では助手ではなく、助教という。)でした。数学科では講義と演習で1科目という仕組みだったのです。

 

S教授は偏屈で有名。ストレスが溜まると突然あることを始めるのです。それは・・・

 

「この問題が分からないものは手を挙げろ。いいか、正直に手を挙げるんだ。」

するとクラスのほとんどが手を挙げました。「何、こんなに分からないやつがいるのか。ああ、イライラする。」と言って突然窓を開けて煙草を吸い始めました。生徒は一同唖然。まさか、大学で授業中に教授が煙草を吸い始めるとは思わなかったのです。」

 

「いいか、今見たことは教務課の奴らにしゃべるんじゃないぞ。最近の教授会は数学の話題よりも俺が授業中に煙草を吸っていることを責める話題ばかりだ。」「それとな、間違えても週刊誌にもしゃべるなよ。」学生一同、「誰も先生が煙草を吸うことを週刊誌にはしゃべりゃしないよ。」と心の中で思っていました。ある意味、自由過ぎる時代だったのです。

 

S教授のもう1つの特徴は英語の教科書を使うこと。S教授は「俺の授業はな、他の教授と違って英語で数学を学ぶことを特徴としている。これをな、二刀流というんだ。将来な、この二刀流を真似するやつが絶対出てくる。俺の推測ではな、野球界に出てくると思うぞ。」「先生、質問があります。」「何だ、何でも言ってみろ。」「二刀流って英語で何というんですか。」「それはな・・・」一瞬、S教授の顔が硬直しました。「そんなもんな、自分で調べろ。自分で調べるというのが勉強というものだ。」教室の後ろのほうでクスクスと笑い声が聞こえてきました。「あいつめ、俺に恥をかかせやがったな」と思いながら、こっそりと窓を開けて煙草を吸い始めました。

 

一方のY助手。Y助手の鉄板のネタが、有名数学者「秋山仁」の伝説を語ること。「秋山仁」はEテレで数学の教育番組を持つ有名人。ちょっとお茶目な髭がトレードマークです。水戸黄門などで有名な由美かおるとも熱愛が報じられた人物。

 

秋山仁はW大学の構内で車を暴走させるので有名です。あれが彼オリジナルのストレス発散法なのですよ。ま、安心して下さい。今のところ無事故ですから。」学生一同、

「そういう問題じゃないだろ。」と内心思っていたのです。

 

今、振り返るとあの頃はまだ平和だったなというのが私の実感です。国際数学連合の舵取りをされる中島さんの今後のご活躍を期待し、沈みゆく日本がもう1度浮上されるきっかけを作って頂きたいと思います。

 

 

 

第76話 まじめ人VSあそび人

今回第76話のテーマは「まじめ人VSあそび人」です。私が11年前に通っていた福祉の専門学校では、様々な個性的な先生がいらっしゃいました。少し変わった先生の集まりだったといえます。

 

私は、38歳のときに社会福祉士の資格をとろうと思い、地元から少し離れた専門学校に通いました。その当時の担任のT先生。みるからに堅物といった感じの先生。それに対してどうみても遊び人にみえたT先生。二人は同じ苗字であるにもかかわらず、対照的な性格。同じ苗字であるがゆえにお互いをけん制しているようにみえました。

 

まじめ人のT先生。毎回一人一人名前を呼びながら出席をとります。出席の際に行うのが学生の服装チェック。服装が乱れている学生がいると怒りだすのです。服装の乱れは心の乱れ、そう思われていたのだと思います。朝のHRのとき、出席をとったにもかかわらず、1限目もその先生の授業のときには一人一人名前を呼びながら出席をとる超まじめ人。たまに冗談を言われることがあったのですが、皆がしんとしていると「今、ここ笑うところよ。あっ、そう、面白くなかった?」冗談を言ってもみんな笑おうとしないので、自分でおちをつけておられました。

 

ある時、クラスのムードメーカであったNさんが「先生、私たちと一緒にお昼ご飯を食べましょう。」と誘っても「いやいや、僕は遠慮しとくよ。」まじめ人のT先生、本心はどこかで学生と仲良くなりたいと思っているにもかかわらず、自分が空気を壊してしまうのではないかと自覚しておられました。

 

一方、遊び人にみえたT先生。ここで断っておきますが、遊び人にみえるといっても授業はいたって真剣でした。変わっていたのが、授業のときに時々やっておられた会話タイム。「はい、ペアくんで。」といって前後左右の人たちとペアを組ませます。「人はね、会話をしないと生きていけないんだ。会話ができないと何にも物事が成立しない。だからね、僕はこの時間を大切にしたいと思います。」遊び人にみえると言ってもいうことは至って真面目でした。

 

この2人の先生。偶然同じ場所に居合わせても目線すら合わせようとしません。どこかでお互いが自分のことを嫌っているのではないかということを自覚していたようです。

 

まじめ人のT先生。ある時、「うちの学校に雰囲気を壊そうとしている先生がいます。皆さんもそんな人にだまされてはいけませんよ。」と言われました。学生も口には出さなくても誰のことかは推測できたのです。

 

ある時、私は友人のS君と遊び人のT先生と3人で食事をすることにしました。実はまじめ人のT先生は、学生同士で食事に行くことを厳しく禁じておられました。ここだけの話ですが、私はS君と昼休みに時々近所の飲食店に食べに行っていました。もし、見つかったら大目玉だったのでしょう。もしかすると、まじめ人のT先生はご存知だったのかもしれず、目をつむっていたのかもしれません。ましてや教師と学生が一緒に食事を行くなんてもっての他だったのです。一応断っておきますが、社会人の専門学校です。

 

その食事の際に、遊び人にみえるT先生はこんな話をされました。「あのまじめ人のT先生はすごく仕事熱心な人だと思う。ただ、方向性を間違えているから学生に嫌われてしまう。ご本人も気付いているのだと思うけど、どうやって軌道修正したらいいのか分からないんじゃないかな。」

 

色々と楽しい出来事やしんどい出来事を経験しながら1年があっという間に経過しました。その後、この2人のT先生はともに専門学校を辞められ、大学の教員になられました。年に1回クラス会があるのですが、その時話題になるのはなぜかまじめ人のT先生のこと。「あの先生、大学で学生にいじめられてないかな?今の学生は悪い子が多いからね。」いざ卒業してみると、みんなまじめ人のT先生のことが心に引っかかっているようです。

 

ちなみに私は卒業後11年間クラス会の幹事をしていますが、今はご時世により中断中。いつ再開できるか分かりませんが、再開できたらまじめ人のT先生のことを語り合いたいと思います。

第75話 田んぼの中の最先端の病院

今回の第75話のお話は「田んぼの中の最先端の病院」です。以前、私が書いた第61話「オレンジ色の服の医師」を別の観点から書きたいと思います。

 

36歳も終わりに迫った頃の私はある決断をしました。それは「病気治癒への旅」に出るという決断でした。その過程で私は地元から少し離れたところにある小さな病院の医師の影響を受けました。それは…

 

書店で購入した医療関係の本で私は地元の隣の県にある個人病院が掲載されているのを発見しました。「少し遠いけど旅行がてら行ってみるか。隣の県だし。」つい、軽い気持ちで決断しました。事前に電話をかけ予約を入れました。新幹線で行き、そこから地元のローカル線に乗るという手段で行くことにしました。しかし、そのローカル線は1~2時間に一本という頻度でした。

 

「折角遠くへ行くのだから一泊しよう。」ところが、その病院付近には宿泊する施設などないようです。ネットで見る限り、コンビニやスーパーなどもありません。やむを得ず、新幹線の駅付近に宿泊することにしました。

 

初診日当日。私は旅行バックを片手に持ち、出発します。新幹線に乗り、その後ローカル線に乗り換えました。そして駅で降りると駅は無人駅。駅の周りは田んぼしかありません。「もしかして本に騙されたのではないか?」そういう疑念が浮かび上がりました。ところが、田んぼの中にぽつんと本に掲載されていた個人病院がありました。

 

「あっ、あった。確かに本に載っていた病院があった。」一瞬うれしくなりました。しかし、病院の門構えは最先端の治療には程遠い様子。「本当にここで最先端の治療をしてくれるのだろうか?」そういった疑念が浮かびました。「予約していたものです。広島から来ました。」「まあ、わざわざ遠いところから有難うございます。」

 

こちらの問診票にご記入をお願いします。問診票を渡され、早速記入しました。「暫くお待ちください。担当医の診察があります。田んぼの中の小さな病院でしたが、医師は2人。お父さまと息子さんの2人の医師でした。最先端の治療をされるのは息子さん(I医師)の方。「遠くからわざわざお越し頂き、有難うございます。私の治療は少し変わっています。最初のうちは2週間に1度お越し頂くのは可能ですか?」と私に語りかけられました。「可能です。宜しくお願いします。」そう言って、治療はスタート。「最初に私の音声が吹き込まれたCDを差し上げます。家に帰られてからゆっくり聞いて下さい。」治療内容は、加圧トレーニング、AKA博田法、爪もみ、鍼治療といったものでした。

 

治療の後、2、3日は体がだるい状態が続きました。その後は、身体がすっきりしていい感じになりました。ただ、加圧トレーニングはしんどく感じられたので最初の数回でやめてもらうことにしました。

 

1点気になることがありました。それはI医師がいつもオレンジ色の服を着ていることでした。I医師もブログを書かれており、ある時、オレンジ色の服を着ていることを書いておられました。「オレンジ色というのは心が落ち着きます。だから私は常にオレンジ色を着ています。患者さまの中でも着た方がいい方は私からお伝えします。」残念ながら私は着た方がいいとは言われませんでした。

 

また、別の日にブログに次のようなことが書いてありました。「病気が治るということは幸せになることです。いくら症状が消えても幸せにならないと何の意味もありません。本当の意味で幸せになると病気のことなんか忘れてしまいますよ。」確かにその通りです。いくら痛みがなくなったところで幸せになっても、あまり意味がないような気がします。

 

その病院へは1年余り通いました。I医師が独立し、別の場所で開業される時点で通うのをストップしました。

 

実はこの時、不思議な話があったのです。I医師の病院では奥さまが看護師として働いておられました。また、当時私にはD君という医療専門職の資格をもつ友人がいました。D君はこの病院がある県の出身でD君の奥さまも看護師でした。D君にこちらの病院の話をすると、D君の奥さまとI医師の奥さまが友人どうしであることが分かったのです。ただし、私は最後までこの事実をI医師には内緒にしておきました。

 

※前回このI医師のお話を書いたとき、AKA博田法について、「はかたほう」と読むべきか「ひろたほう」と読むべきか質問を受けました。AKA博田法のホームページを見ると「はかたほう」が正しい読みのようです。

 

 

 

 

 

第74話 盲目の数学者

今回のお話は第74話「盲目の数学者」です。私は、大学時代に目の不自由な方と卓球をしたことがあります。する前は勝てるものだと思っていました。また、その後この方と意外なところで再会したのです。

 

私が通っていた大学では、体育の授業はコース選択制でした。1年次と2年次の前期は必須でしたが、選択するスポーツは自由でした。ですが、スポーツ全般が不得手であった私はどうすべきか随分悩みました。そこで「保健コース」というコースを選択したのです。そのコースは本来身体に障害がある人のためのコースで、1年生2年生、専攻学科を問わず全て同じ授業を受けましたが、私はそのコースを担当していたH助教授(今でいうところの准教授)の許可を得て身体に障害のない私も特別にそのコースを選択することができました。

 

そのコースでは、バトミントン、フリスビー、アーチェリー、ゴルフの打ちっぱなし、ビリヤード、ゲートボール、ボーリング、卓球などのスポーツを行いました。身体に障害を抱えながらも懸命にスポーツを行う学生に混じってスポーツを行いました。

 

ある時間に卓球を行ったのですが、1年生であった私は、2年生の盲目のIさんという男子学生と対戦することになったのです。H助教授から「簡単に考えちゃいかんよ。多分ね、あなたが負けると思うよ」と言われました。

 

Iさんは対戦前に「私は目が見えませんが、かろうじて目の端で光を感じることはできます。手加減しませんのでどうぞ宜しくお願いします。」と言われました。Iさんとの卓球は普通の卓球とは違い、光る球をテーブル上で転がすというものでした。

 

私とIさんとの対戦が始まりました。結果は私の惨敗。何対何かは忘れましたが、私は3点だったと思います。運動量も予想以上に激しいものでした。H助教授は、「目が見えないと他の感覚器官は研ぎ澄まされる。だから、それ以外の感覚は普通の人以上のものがあるからとても適わないんだよ。僕だってI君に負けてしまうよ。」

 

Iさんとの対戦はその1回だけだったと思います。その体育の授業の後はIさんと会う機会はもうないと思っていました。ところが、ある場所で再会することになるのです。勘の良い方はお気づきだと思われます。

 

前話でもお話したようにその後、私は生物学科から数学科に移りました。4年次になると数学科では大学院生と一緒に講義を受講する機会があります。

 

数学科のある科目の授業の時間のこと。科目名は忘れましたが、その講義は大学院生と一緒に受講する講義でした。私は椅子に座って講義が開始されるのを待っていました。すると、周りを何人かの学生に囲まれながら、視覚障碍者用のスティックを手に持ち、サングラスをかけた学生が教室に入ってきました。私はその時、一緒に昔卓球をしたIさんだと分かりました。「まさか、数学科の方だったとは…」私が数学科の4年生の学生だったその時、Iさんは数学科の大学院生だったのです。

 

体育の授業で「保健コース」を受講した学生は学年も1年生、2年生混ざっており、お互いが何の分野を専攻する学生かは知りませんでした。かろうじて学年だけは1年生か2年生か分かっていました。ですから、まさかIさんが数学を専攻している方だとは分かりませんでした。

 

Iさんがその後、どうされているか分かりません。おそらく日本のどこかで数学を活かす仕事をされているのではないかと思い、タイトルを「盲目の数学者」とさせて頂きました。何らかの形でIさんが数学を楽しんでいらっしゃる姿が拝見できたらと思います。