不思議な毎日~人生迷走中?

私の人生で起こった不思議なこと~不思議・雑記

第65話 人生を分けたある日の出来事

今回は第65話「人生を分けたある日の出来事」です。読者の皆さんも「あの日の出来事がなければ、私の人生は大きく変わっていた」ということがあるのではないかと思います。私の「犬と共に歩む人生」も「あの日の出来事がなければ、犬好きの人生を送っていなかった」そう思える日があります。そして、全く今とは異なる人生を送っていただろうと思われるのです。

 

私は人生48年間のうち、24年間ペットとして犬を飼っています。昔飼っていた「ハナコ」と現在飼っている「ピーチ」この2匹を合わせて丁度24年。人生の半分です。大学時代、福岡に住んでいた時も近所の犬を可愛がっていたので、ほぼ犬ありの人生です。また、インコや文鳥、ウサギなどの動物を飼っていた時期もありました。

 

実をいうと、私はある時までは犬が嫌いでした。そう、小学1年生までは。思わぬ形で犬と出会い、それから犬の虜にになってしまったのです。今を振り返ること42年前のこと。この時の出来事がなければ、私は一生涯犬嫌いであった可能性があります。私の運命を変えた出来事とは…。

 

今から42年前の5月のことです。当時、日本の経済は右肩上がりでした。誰もが日本が永遠に成長し続けるのではないかと思っていました。私は小学2年生で学校から帰ると母からあることを言われたのです。「隣の家でワンちゃんを飼ったので見てきなさい。」まさか、母のこの一言が私の運命を変えるとは思いもしませんでした。私は犬は好きではなかったのですが、興味本位で弟と共に隣の家に犬を見せてもらいに行ったのです。私と弟は、「犬って意外とかわいいな」と思い、家に帰りました。これから時々見せてもらいに行こうと思いました。

 

ところが、その翌日学校から帰ると母から意外なことを言われました。「実は、隣のワンちゃん、隣のお父さんが飼ってはいけないといったそうよ。」私はすかさず、「じゃ、その犬はどうなるの?」母は口ごもりました。私はその犬の運命を察し、咄嗟に「じゃ、うちで飼おう!」と言ってしまいました。当時小学2年生だった私、犬を飼うことが大変だと思いもしませんでした。その犬は隣の家で「ハナコ」と名付けられていたので、そのまま名前を引き継ぐことにし、「ハナコ」との生活が始まりました。

 

それから3年近く経ったときのことです。我が家では引っ越しをしようという話になっていました。しかし、両親が決めた引っ越し先は一軒屋ではあったのですが、ペットを飼うことを禁止されていました。私はその引っ越しに大反対し、両親を説得し、犬を飼うことができる一軒屋を探してもらうことにしました。運よく、意外と近くに犬を飼うことができる家が見つかり、そこに住むことにしました。以来、現在まで我が家はその場所にあります。

 

ハナコ」は15歳で天寿を全うしました。亡くなったのは大変暑い夏の日のことです。「ハナコ」が我が家にいた15年間、私たち家族は大変楽しい思いをしました。もちろん、いいことばかりではありませんでしたが。「ハナコ」が亡くなると、我が家の明かりが消えたようになり、もう犬は飼うまいと家族全員が心に決めました。

 

それから18年後、我が家では犬を再び飼ってはどうか、という話が出るようになりました。柴犬が飼いやすいので飼おうということになり、少し離れたペットショップに家族で行くことになりました。私は、そこで犬を見ているとふと「ハナコ」に似た犬を見つけたのです。”ジャックラッセルテリア”という犬種であまり聞きなれないと思いつつ、籠から出してもらい、抱いてみました。「シフォン」という名前でしたが、その犬は床に置いた途端、大暴れをし、慌てた店長さんが「抱いていれば大丈夫ですから」と言われ、疑問に感じつつもその「シフォン」を飼うことにしたのです。

 

後でその”ジャックラッセルテリア”は、小型犬ではあるが、狩猟犬でかなり手のかかる犬。大型犬と同じと思ってよいということが分かったのですが、後の祭りでした。飼ってみて大変さがしみじみと分かったのです。長時間の散歩、食欲旺盛、長時間相手をしないといけない、人に噛みつくことがあるなど。ペットショップの店長さんの「抱いていれば大丈夫」という言葉はまさにその時だけは大人しいという意味でした。「シフォン」は我が家に3月4日に来たので「ピーチ」という名前に改め、現在に至っています。もしかすると、「ハナコ」に似た「ピーチ」。私がそのペットショップに行くことを分かっていた「ハナコ」が私と「ピーチ」を巡り合わせる何らかの仕掛けをしたのかもしれません。大変手はかかりますが、人の気持ちを察することができる犬で人間以上に人の気持ちが分かる優しい犬です。家族が気分的にしんどそうであれば、傍でそっとついてくれる優しい面があります。

 

小学2年生のあの1日の出来事。あの日、隣の家に犬を見に行っていなかったら、私のその後の人生は全く違ったものになっていたことでしょう。犬のことが苦手なままだった可能性もあります。今の家にも住んでいなかったでしょうし、私自身今どこで何をしていたか分かりません。それほど隣の家に犬を見に行った出来事は私の人生を分けたのです。

                                                                     

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アメリカ合衆国アリゾナ州で旅行した際に買ったお土産。今から24年前でしたが、料金を支払った際、表示額丁度を払うと、大きな声で「Tax!Tax!」と言われ、追加を払うと店主が「OK!」とニンマリ。多分、慌てて相当余分を払ったのでしょうね(笑)

 

 

 

第64話 奇人変人数学者

今回は第64話「奇人変人数学者」です。先ごろ、さざ波ツイートで世間の反感を買ったT内閣官房参与は有名大学の数学科卒であると言われています。数学科卒の人は、ずっと数学の事を考えているので、日常でどこかおかしなところがあるのかもしれません。

かくいう私も数学科卒ですが、少しばかり常識外れの人間のような気がします。

 

私が大学時代に出会った数学者達もどこか変わっていました。

 

幾何学の授業中でした。大変厳しく、変わり者と噂されたS教授の授業。私たち学生はまさかの光景を目にすることになるのです。

 

S教授の初回の授業での出来事でした。「この問題、分からないもの手を挙げろ」「次のこの問題、分からないもの手を挙げろ」「こんなに分からないものが多いのか?あーいらいらする」「ちょっと待ってろよ」と次の瞬間、S教授は窓を開け、何のためらいもなくワイシャツのポケットから煙草を取り出し、ぷかぷかと煙草を吸い始めたのです。「まさか、授業中に教授が煙草を吸い始めるとは・・・」私はあまりの光景に目を疑いました。もちろん目を疑ったのは私だけではありませんでした。そこにいた学生たちは皆絶句してどうしていいか分からなかったのです。

 

その当時はまだ平成が始まって間もない頃。世の中はバブルが崩壊していたらしいのですが、まだ私たちはバブルが崩壊したという事実に気が付いていませんでした。今とは違い、自由な時代だったとはいえ、大学の授業中に教授が煙草を吸うというのは考えられませんでした。その後もS教授はほぼ毎回授業中に煙草を吸ったのです。私たち学生も慣れっこになり、あまり驚かなくなりましたが。ただ、今の時代なら完全にアウトでしょうね。内輪で抗議がくる程度ならまだいいのですが、下手をすると週刊文春が騒ぎ出す事態になる可能性が大だったと思われます。令和の今でしたら、間違いなく大問題になっていたことでしょう。

 

それから2年後の講義でも時間割にS教授の名前があったのですが、講義を実際に担当されたのは違う教授でした。もしかするとS教授、体調を崩されたのではないかと心配されましたが、その真実は今となっては闇の中です。

 

一方でいい意味で期待を裏切った数学者もいました。当時まだ講師の立場だったT講師。見た感じあまりパッとしない講師でした。ただ、人柄は大変評判がよく、会うといつも大きな声で笑っているといった感じでした。いい意味で裏切られたと私が感じたのは、実はそれから25年以上経った昨年のことです。私が書店で数学書のコーナーで立ち読みをしていると現在は教授となっているT教授の書いた本を発見したのです。「懐かしいな。本を書かれたんだ。」と思い、その本の周辺を見渡しているとT教授の書いた本がたくさん見つかったのです。私は驚き、家に帰ってT教授の名前をネットで検索すると、何と日本を代表する数学者の一人になっておられました。「そんな凄い人だったのか。いい意味で騙された…。まさに能ある鷹は爪を隠すとはこのことだな…せめてサインを貰っておくべきだった。」

 

今となっては数学の世界で有名人になられたT教授。私がT教授のようにいい意味で期待を裏切る日は来るのでしょうか?

 

読者のみなさんも奇人変人数学者をご存じないでしょうか?

 

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先日他界した田村正和さん主演の舞台を16年前に見に行きました。今となっては貴重なチケットです。もちろん、田村さんは数学とは無関係ですが…。 

 

第63話 かみつき犬と摩尼寺(まにじ、まにでら)

今回は第63話「かみつき犬と摩尼寺(まにじ、まにでら)」です。

 

今から3年前のことだったと思います。平成も終わりに差し掛かる頃、世の中は今と比べると落ち着いており、平和な空気が漂っていました。私は鳥取にいる友人を訪ねて旅をすることにしていました。友人が事前にどこに行きたいのか聞いてきたので、私は調べた結果、「かみつき犬」に会いに行きたいと希望しました。友人は「かみつき犬?鳥取に来て犬に会いに行きたいなんて初めて聞きました。」といぶかしげに返答をしてきました。それもそのはず、私はその友人K君から犬に全く興味がないと聞いていたのですから…。

 

ここで「かみつき犬」についてご紹介しましょう。「かみつき犬」というのは鳥取市の摩尼寺というお寺の近くにいる柴犬で誰が触ってもかみつく犬らしいのです。私は是非その犬に会いたいと思い、鳥取に行き、会うのを楽しみにしていました。ところが…。

 

旅行当日。私は鳥取駅に着き、K君が来るのを待っていました。K君が到着すると早速K君の車で「かみつき犬」に会いに向かいました。目的地は摩尼寺付近です。摩尼寺近くの駐車場に車を停め、「かみつき犬」を探しました。すると商店の一角に「かみつき犬」らしい犬がいるのです。ところが、「近づくな!危険」と書いてあり、遠くからしか見ることができないのです。見ると普通の柴犬がぽつんと一匹繋いであるだけでした。私もK君も「たったこれだけのこと…」といった感じで呆然と立ち尽くしました。K君も犬には興味がないと言いつつ、「かみつき犬」がどんな犬なのかは興味があったのでしょう。

 

その後、折角ここまで来たのだからと2人で摩尼寺へと向かうことにしました。急な階段を登り、摩尼寺へと向かいます。階段を登り切り到着した場所はかなり気のいい場所です。誰もいない広々とした場所で異次元の空間が広がっていました。2人で摩尼寺の境内をじっくりと歩きました。その時、後ろから突然、「どちらから来なさった?」と住職らしき人が話しかけてこられました。「私は広島です。友人を訪ねて鳥取に来ました。」「そうですか?わざわざ遠くから来なさった。ここは不思議な場所ですよ。ゆっくりと見て行って下さい。」私はその時、ここで住職さんに話しかけられるのなら何か聞きたいことを用意しておくべきだったなと自省しました。

 

2人とも訪ねてきた目的はかみつき犬でしたが、かみつき犬は期待外れだったものの、その結果いい場所へと来れたと感慨深いものがありました。

 

あらためて「摩尼寺」について調べてみるとWikipediaに以下のように書いてありました。『「摩尼寺」は鳥取県鳥取市にある天台宗の安楽律法流の寺。山号は喜見山。古来より信仰の対象として崇められてきた摩尼山の山頂付近に開創された古刹であり、山頂の立岩は帝釈天降臨の霊地とされている。寺に伝わる『摩尼寺帝釈天王縁起』(弘化3年、1846年筆写)によれば、平安時代の初め頃、高草郡の産見長者が喜見山に登ると、立岩に帝釈天が降臨し、「今よりこの峰に鎮座して衆生を救い、なかんずく五障の身である女人を済度しよう」と告げた。長者はこの地に精舎を建て、それを承和年間(834年頃)、円仁が再興したのが「摩尼寺」の起こりであるという。』

 

鳥取の意外な場所へと導いてくれたのは、あの「かみつき犬」でした。もしかすると「神付き犬」なのかもしれませんね。(よく考えるとお寺は神様ではなく、仏様なのですが…)

 

※「摩尼寺」へ行くには鳥取駅から車で20分。バスも通っているようですが、バス停からかなり離れた場所のようなので不便だと思います。

 

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今年のGW中に書いて頂いた広島市の「空鞘神社」の御朱印。先日広島TVの「テレビ派」という番組でも神社のことが取り上げられていました。今思えば、摩尼寺でも御朱印を書いてもらえばよかったな…。

第62話 歩いてみなさい、走ってみなさい、飛んでみなさい

今回は「第62話 歩いてみなさい、走ってみなさい、飛んでみなさい」です。

 

私が大学に入学する直前はバブル絶頂期、世の中も華々しい時代でした。「いい大学に入れば、いい仕事がある」誰もがその事実を信じて疑いませんでした。ですので、我々第2次ベビー世代の学生たちは、こぞっていい大学を目指し、厳しい受験競争を戦ってきました。私もその中の一人でした。

 

ところが、私が大学に入学した頃から世の中の雲行きが怪しくなってきました。かなり後で分かったことなのですが、バブルが弾けたのです。バブルが弾けたと言われても私にはすぐにぴんときませんでした。私どころか世の中の人のほとんどの人がどうにかなる、すぐに景気のいい日本に戻る、そう信じて疑わなかったのです。あれから30年近くなりますが、日本が本当に復活したというときはいまだに訪れていません。いや、さらに事態は悪くなっているといっても過言ではないでしょう。

 

私と同じ世代かその前後の第2次ベビーブームの世代の方なら一部の人を除き、仕事探しに大変苦労した経験がある人は多いと思います。そんな私が出会ったあるハローワーク職員とのお話です。

 

私が30歳前半の頃でしたので今から遡ること15年くらい前だったと思います。その当時の総理大臣は小泉純一郎郵政民営化構造改革規制緩和と声高に叫んでいましたが、今となってはその改革がよかったのかどうか、大変疑問に残ります。

 

私は仕事を探しにハローワークへと出掛けました。そして職員との面談です。中年の男性職員でした。私が座って最初に言われた言葉は、「本気で仕事を探したいなら、歩いてみなさい、走ってみなさい、飛んでみなさい。その場で飛んでみたらいいんですよ。」私は、「はっ?その場で飛んでみなさいって、コント55号じゃあるまいし…」といぶかしげに思ったのですが、そのハローワーク職員はいたってまじめに言っているようでした。「そういったことを言われても正直面食らうのも当然だと思いますよ。ただ、私はまじめに言っているのです。”マーフィーの法則”というのがあります。実現したい夢があるなら、人間行動を起こさないと何も変わらないということです。人間ってどこか自分自身変わりたくないって気持ちがあるじゃないですか。恒常性というものです。もちろん、私にもそのような気持ちはあります。ただね、歩いてみなさい、走ってみなさい、飛んでみなさいと言われても現実的ではないかもしれませんね。ただ、こういう考え方を頭に入れて検索機に向かって仕事探しをするだけでも随分と違いますよ。”マーフィーの法則”の本はかなり出ていますので、一度購入して読んでみたらいいと思いますよ。」

 

私は正直かなり変わった職員だなと思ったのですが、言われたことを素直にする性格なのですぐに”マーフィーの法則”の本を購入して何度も何度も繰り返し読みました。その後、ただ単に検索機で仕事を探すだけではなく、色々と今まで行ったことがない場所へ行ってみるようにしました。すると知人から私の知り合いに霊能者の人がいるので一度会ってみないと言われたのです。私は少しためらったものの、その霊能者さんに会ってみることにしました。その霊能者さんが、私のブログに出てきた第7話「霊能者に見てもらったときのこと」で出てきた霊能者さんだったのです。霊能者さんからのアドバイスは、「あなたは人との会話量が足りませんね。その証拠にえらが張っていません。人と話すのが苦手なあなたにもいいアドバイスがあります。それは、朝晩毎日「あ、い、う、え、お、…ん」まで1回でいいので必ず口を大きく開けて言ってみて下さい。すると間違いなく運が開けますよ。ただ、あなたが運が開けるのはかなり先のことのように思いますよ。」

 

私はやはり毎日朝晩「あ、い、う、え、お、…ん」と口を大きく開けて言うようにしました。たまに忘れることはありましたが。

 

暫くして臨時教員の話があり、それは短期に終わったものの続けて地元広島からは少し離れた神戸での仕事の話がありました。神戸での仕事の話はその話があった翌日には返事が欲しいということでした。私はこれは行くしかないなと思い、神戸での仕事をすることにしたのです。神戸では私の人生を大きく変える出来事をたくさん経験しました。

 

今振り返ってみると、あの時出会ったハローワーク職員の「歩いてみなさい、走ってみなさい、飛んでみなさい」の言葉は、人生行動を起こさなければ何も変わらないということを言いたかったのだと思います。

 

(注釈)私は今回のブログを書き終えた後、マーフィーの法則は少しニュアンスが違うのではないかと思い、調べてみました。

『大宇宙には法則があります。そして人生にも法則があります。ジョゼフ・マーフィー博士は「人生には永久不滅の法則があります。それは、あなたがあきらめてしまわない限り、奇跡は必ず現実になることです。」と述べています。マーフィー博士はこれを人生の黄金律(ゴールデンルール)と呼びました。このゴールデンルールを活用すれば、誰でも思い描いた人生を生きることができます。このゴールデンルールとは、潜在意識から発展する偉大な力、すなわち潜在能力のことです。この潜在能力が人生のあらゆるところに働いていることを理解することが人生に勝利するコツです。潜在能力の力を自分のものにするには、なりたい自分になりつつあると常にイメージすることです。強く思い描いた夢は必ず実現するという不変の法則を信じることです。これを信じるか、疑うかで人生の結果は大きく違ってきます。マーフィー博士は、「あらゆる時代の天才・偉人はみな、この宇宙の偉大な法則を信じてきた」と言っています。あなたも、マーフィーの法則を信じることも疑うこともできますが、どちらを選ぶかあなた次第です。』

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上記の写真は先日、5月9日に広島市の比治山神社で頂いた御朱印です。以前頂いたときも大変綺麗な字で書かれており、また是非貰ってみたいと思い、書いて頂きました。前回は平成27年に頂いたのですが、6年の歳月の間に内部が大変綺麗に改装されていました。 鯉のぼりのスタンプが押してありますね。

 

第61話 オレンジ色の服の医師

今回のタイトルは「オレンジ色の服の医師」です。

 

私は物事を中途半端にすることが多いのですが、次の3つのことは誰にも負けない自信があります。「数学、犬の世話、病気の治療」です。とりわけ「病気の治療」に関しては他の人が取り組まないような治療にも取り組んできました。その中で知り合った治療家の一人、「オレンジ色の服の医師」についてお話ししたいと思います。

 

今から11年ほど前、まだ東日本大震災が起こる前のことだったと思います。私はある本で広島の隣県、山口県山口市にT内科という珍しい治療をする病院があるのを知り、大変辺鄙なところでしたが、通院することにしました。T内科は山口市宇部市の境界にあり、広島からは新幹線で新山口駅山口市)に行き、そこから宇部線に乗り換えます。宇部線は1時間から2時間に1本しかなく、往復するだけでも一苦労です。

 

初めてT内科に行った際、まず病院が駅の前にあるものの、田んぼの真ん中にあるのには驚きました。駅を利用する人が一日当たり百人もいない駅です。もちろん無人駅です。周りには喫茶店はおろかコンビニもありません。私は本当にここに時代の最先端をいく病院があるのだろうか?と思ったほどです。病院の入り口を開け、挨拶をすると「遠いところをわざわざお越しいただきました。」と受付の方が挨拶を返されました。

 

診察を受ける前に問診票に記入しました。そしてすぐに血液検査がありました。その後、医師の診察です。診察室に入って医師の姿を見るとオレンジ色の私服を着ていました。私より年下の男性医師です。「初めまして。私が医師のTです。遠いところをわざわざお越し頂きました。私の治療はかなり変わっています。暫くの間大変かもしれませんが2週間に1度お越しいただけませんか?」物腰が大変柔らかい感じでした。私は2週間に1度通院することを了解しました。「私の治療は、加圧トレーニング、AKA博田法、爪もみ、鍼などを行います。小さい鍼が入ったシールを貼りますが、どのシールを貼るかは当日患者さんを拝見したときの私の気分で決めます。治療が多少しんどいかもしれません。しんどい時はおっしゃって下さい。もし、普段の生活で体調が悪ければ漢方薬を出します。」T医師の治療は免疫力を高める治療でした。治療の中心はAKA博田法で身体の関節を手でさっと触り直す方法です。触れただけで治療をするのでまるで魔法のような治療です。

 

そして暫くの間、私は2週間に1度通院しました。T医師は毎回オレンジ色の服を着ています。「私が患者さんにお伝えしたいことがいくつかあります。1つ目は私は病名をつけることはよくないと思っています。カルテに書きはしますが、病名をつけると患者さんに固定観念が入ってしまい、治るものも治らなくなります。2つ目は仮にもう長くないと思われる患者さんでも余命は言わないことにしています。仮に余命後何年ですよと言うと本当にその通りになってしまいますからね。大丈夫ですよ。患者さんは必ずよくなりますよ。」

 

治療後しんどくなることが多かったのですが、体調は上向いてきました。ただ加圧トレーニングはあまりにもしんどいため途中で断念しました。ある時T医師が書いているブログを読むと次のように書いてありました。「私は診察室でオレンジ色の服を着ていますが、それには理由があります。オレンジ色を着ると心が癒されるからです。患者さんの中でもオレンジ色を着て欲しい人には私から申し上げるようにしています。」残念ながらT医師は私にオレンジ色の服を着るよう言われることはありませんでした。

 

T医師の考えは、「治療家は病気のほんの一部しか治すことしかできない。もちろん治療は本気になって治療をする。治療をするというよりも本人が病気を治そうとする力を引き出すことが治療家の役目である。」といったものでした。T医師は対話を重視し、私に病気を治す考え方を伝授されました。病気を治すために一番大切なことは自分自身が幸せになることである。どんなにいい治療を受けても幸せにならなければ病気はよくなることはないといった考えを私に伝授されました。その時は分かったような分からないような複雑な気持ちになりましたが、今となってはその通りなのだと思います。人間は何はさておき幸せになるため、人生を楽しむために生まれてきているのだと思います。

 

T医師はやはり医師であるお父さまの病院で治療をされていましたが、私が通い始めてから1年と少し経過した頃に独立されて別の場所で治療をされることになりました。私は通うのが大変なのでこの時点で治療を中止することにしました。中止したもう1つの理由は治療の後しんどくなることが多かったからです。

 

今となっては私にとってT医師との出会いは懐かしいよい思い出です。おそらく今も元気に患者さんと向き合い、治療を行っておられることと思います。

 

(追伸)

T医師を巡っては面白い偶然がありました。この当時私は全く別のところで山口県出身のH君(前出の島の出身のH君とは別人)と友達になったのですが、H君の奥さんは看護師でした。T医師の奥さんも看護師で私が通っていたT内科で看護師をされていました。なんとH君の奥さんとT医師の奥さんは看護師仲間でよく知っているとのことです。ただ私はT医師には一切この事実は黙っていました。

 

 

 

 

 

 

第60話 私を守ってくれるお守り

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今回のお話は「私を守ってくれるお守り」です。今から10年ほど前のことでしょうか?私は友人のH君とともに神戸の占いの館に行ったのです。H君は、私に面白い占い師さんがいると教えてくれました。私はH君の言うことなら間違いないと思い、是非その占い師さんに占ってもらうことにしました。その占い師さんは年配の女性で、「私は当てない占い師です。今からあなたに人生訓を述べます。」といった内容の話をされたと思います。確かにその占い師さんは、今からあなたの人生はこうなるからこうしなさいといった内容の占いではなく、このように生きていきなさい、そうしたら人生よくなりますよといった人生訓を述べられました。正直、あまり内容は覚えていません。ただ最後に「折角ここへいらしたのだから、私が淨霊しておいたお守りを差し上げます。あなたの人生において今後、災難が起きてもきっと守ってくれると思います。」と言って私にお守りをくれました。私はその占い師さんの言うことを信じ、今でも財布の小銭入れに入れています。あれから10年近く、私の身には少なくとも3つの危難が訪れています。

 

2011年3月11日。言わずと知れた東日本大震災。誰しも忘れることの出来ない日でしょう。私は3月12、13日に新潟に住む友人に会いに行く予定でした。その前日である11日に私は新幹線で大阪に向かい、12日の朝一番の飛行機で新潟へ立つ予定でした。本来であれば、11日に大阪へ行った足でそのまま新潟へ向かうことも出来たのですが、大阪で一泊することにしたのです。11日のお昼ごろの新幹線で大阪へ向かいました。そして午後2時40分過ぎに新大阪の駅に到着し、そのまま宿泊予定のホテルに向かいました。そしてホテルに着いたその時、入り口でガードマンの方が大騒ぎをしているのです。「進度7、震度7」私の耳には確かにそう聞こえました。ホテルのフロントに向かうと「先ほど大きな地震があり、システムが故障しています。中に入るのにもうしばらくお待ち下さい。」そうです、私が新幹線を降り、ホテルに向かう途上であの午後2時47分の瞬間を迎えたのです。部屋に入り、テレビをつけるとアナウンサーがヘルメットをかぶった姿で映っています。私は咄嗟に「広島は大丈夫だろうか?」その時、自分でも何が起こっているか分からず、どこで地震があったかも分からず、広島の街を心配しました。しばらくすると地震が起こったのは東北であり、大阪も震度3であることが分かりました。地震が起こった瞬間、私は歩いている途中だったので揺れていることに感ずかなかったようです。

 

その時、広島では大騒ぎだったようです。祖母が私が地震に巻き込まれたのではないかと思ったようです。てっきり11日に新潟へ向かったと思い、なかなか帰って来れなくなるのではないかと思ったようです。私はその日の晩にホテルで旅行会社から連絡を受け、飛行機は飛ぶ予定ですが急ぎでなければキャンセルして下さい、の旨言われ、広島に戻ることにしました。私はなぜか大阪に一泊しました。私を救ってくれたのはあのお守りだったかもしれません。

 

時は流れます。同年2011年の6月。当時私は社会福祉士の資格を取得するため、福祉の専門学校に通っていました。その時、担任のT先生より「車の免許を持っていないのなら、せめて原付の免許を取りなさい。」と言われました。私は自信がなかったのですが、原付の免許を取得することにしたのです。早速、実地訓練があり、私はバイクに乗り、運転し始めてまもなくブレーキとアクセルを間違えてしまい、バイクは猛スピードで壁に向かって突進しました。正直、このままでは人生を終えてしまうと思い、思い切ってバイクから横向きに飛び降りたのです。バイクはかなり破損したのですが、私は奇跡的にも軽い打撲ですみました。まさに「一命を取り留める」体験をしたのです。指導官は「(バイクが破損したことは)気にしなくていいから」と言われ、私は講習を終えました。私は、この経験を踏まえ免許を取ること自体を断念しました。後日教習所に行けば免許を取れたのですが、辞退しました。やはりこの時私の身を守ってくれたのはあのお守りだったかもしれません。

 

そして月日は流れます。2018年5月、例の占い師さんを紹介してくれたH君が、自分の住む島に遊びにきませんか?と誘ってくれ、私は遊びに行きました。H君が「一級船舶の免許を持っているので、僕の船に乗せてあげますよ。」と言って私を船に乗せてくれました。船は快調に進んだのですが、突然海の真ん中でピタッと停止しました。長く乗っていなかったのでエンジントラブルを起こしたようです。H君は急いで彼のお父さんに電話をかけたのですが、どうしようもありません。そこは大型船が通る航路にもなっており、もしぶつかって破損させたら損害賠償を請求される可能性もあるし、私たちが乗っている船自体どうなるか分かりません。もしもの事があったら、新聞やテレビのニュースにも出るだろうなと思っていたその時、船のエンジンがかかったのです。正直、半ば諦めていましたが、奇跡が起きました。うんとすんとも言わなかった船が動き出したのです。この時もあのお守りのお蔭かも・・・。

 

私は以上のような絶体絶命の体験をしましたが、無事何事もなかったかのように生還しました。もしこのお守りがなければ無事だったかどうかは分かりません・・・。きっとこれから先何かがあっても助けてくれることだと思います。読者の皆さんも何か自身の身を助けてくれるお守りをお持ちでしょうか?

 

第59話 36年前の預言者

今回のお話は「36年前の預言者」です。この話は私が中学に入学したばかりのときの実話です。

 

今から36年前、まだ時代は昭和。当時の内閣総理大臣中曽根康弘で日米貿易摩擦が話題になっていた頃でした。私は中学に入学し、入学式を終え、オリエンテーションのため教室に入っていました。担任のT先生が入ってこられ、生徒全員の前で「誰か体育館にこれを忘れた者がおる。持ち物を点検しなさい。」と言われ、体育館シューズを見せられました。私はドジな人がいるなと思いつつ、自分の体育館シューズを探したのです。「あれ、ない。」そうです。そのドジな生徒はこの私だったのです。そんなどうでもいい話をいまだに覚えているのは自分が入学早々ドジをやらかし、恥をかいてしまったからでしょう。私は36年経った今でもその片鱗を残しており、結構ドジをやらかします。人間的に成長していないのでしょうか?

 

そんな私のドジを吹き飛ばす出来事がこの数十分後に起こりました。T先生が一通りの説明を終えられ、質問を受け付けられたのです。その時、一人のクラスメートが手を挙げました。そして質問をしました。「もし、今世の中でパニックが起こったらどうしたらいいのでしょうか?」生徒一同皆大笑いをしました。T先生も困った表情で「落ち着いて行動すること」といった内容を言われたと思います。至ってまじめに質問をする中学生を怒るわけにはいかなかったのでしょう。そして彼は質問を畳み掛けます。その後の質問は具体的に覚えていないのですが、やはり世の中がパニックになった場合にどうすべきかという内容に関連する質問でした。T先生も他のクラスメートも半ば呆れ気味です。彼は何問かパニックに関する質問をしました。私も変わったクラスメートがいるなと思いました。

 

そしてその日から彼のあだ名は「パニック」になりました。当時世の中はパニックが起こる状態ではありませんでしたが、それから35年経った昨年、世の中パニックになるという預言は現実になりました。私自身こういった発言は忘れていたのですが、最近ふと思い出したのです。私は彼が今の世の中を預言していたのではないかと思ったのです。

 

私はそのパニックを預言したクラスメートが今どこで何をしているか知りません。その時同じクラスだった、クラスメートとも付き合いがありませんので誰かこの発言を覚えているか確認のしようがありません。ただ、T先生とはいまだに時折連絡をとっており、昨年学校訪問を予定していました。しかし、世の中が本当にパニックになってしまったので、その訪問は断念しました。今度、T先生に会う機会があれば、このパニック発言をしたクラスメートのことを覚えていますか?と是非聞いてみたいと思います。まさか、このパニック発言が現実になる日が来るとは・・・。