不思議な毎日~人生迷走中?

私の人生で起こった不思議なこと~不思議・雑記

第73話 魂の叫び

今回第73話のタイトルは「魂の叫び」です。人生最大の暗黒時代だった大学時代。そんな時に私に救いの手を差し伸べて下さった、一人の大学教授。今でも心に残る恩人の一人です。

 

私たちの世代は第2次ベビーブーム世代。競争相手も多く、いい大学、いい会社に入ればバラ色の人生が待っている、そういわれた世代です。勉強していれば人生何とかなる、そういう錯覚にも囚われていました。私の通う高校は進学校で、私は日夜勉強に励んでいました。ただ、高校2年の終わりごろから心身に不調を感じるようになりました。そして大学受験。残念ながら、浪人。そして一浪後、本来の志望とは異なるある大学の生物学科に入学しました。本当は数学科を希望していましたが、点数が足りなかったのです。

 

受験勉強からの解放。これでようやく体調不良からも脱出でき、楽しい学生生活を送れる、そう思っていたのですが、その考えは甘かったようです。大学に入っても体調が思わしくない、そういう日々が続きました。

 

大学入学時の担任の教官がドイツ語のS教授。ここで、生物学科なのにどうしてドイツ語の教授が担任?と不思議に感じられるかもしれませんが、私の通う大学では、必ずしも専門教科の教授が担任とは限らなかったのです。この点はある意味異文化交流を意識していたのかもしれません。そのS教授、大変温厚な老紳士でみるからに「神が宿った方」という感じでした。私たち学生にも常に丁寧語を使われ、このような穏やかな先生は見たことがないなと思いました。

 

ドイツ語の授業でS教授は、「私はプロテスタントです。プロテスタントというとぴんとこないかもしれませんが、キリスト教徒の一つです。カトリックと比べると戒律は緩やかなんです。よく分からないかもしれませんが、少しずつドイツやキリスト教について皆さんにお話ししていきたいと思います。」そうおっしゃいました。そして、授業中に時間の許す限り、ドイツやキリスト教について話してくださいました。

 

大学時代も1年が過ぎ、2年次になりS教授は担任を続けられましたが、ドイツ語の授業は他の教授に変わりました。2年次になった頃から私の体調はみるみる悪化したのです。思い切ってS教授に相談に行くことにしました。「よく相談に来て下さいました。私でよければいつでも相談にのりますよ。」「学科を数学科に変わることはできないでしょうか?それと最近あまり体調がよくないのです。」

 

S教授はすぐに大学の教務課までついてきて下さり、職員に事情を説明してくださいました。ただ、そのときは職員もそのようなことはできないと一点張り。一旦諦めることにしたのです。ただ、私の体調不良は続きました。

 

ある日のこと。授業もないので家にいて身体を休めていました。そんな折、S教授から電話がかかってきたのです。「体調はいかがですか。もしよければ私が通う教会に一緒にいきませんか。心が救われますよ。」そのとき、私は咄嗟にS教授の申し出を断ってしまいました。後日、心がとがめられた私はS教授の研究室を訪ねたのです。「気にすることはないですよ。また気が向かれたら一緒に行きましょう。」

 

さらに体調が悪化し、私は休学を決意。S教授に伝えました。「折角途中まで頑張られたのですから、私が何とかしましょう。」その時、私が受講していた先生方10人近くに1人1人頭を下げて回って下さいました。私の事情を説明して下さり、それにこたえてくださり途中の時点でも単位を認定してくれた先生が数人いました。ただ、それでもあと2単位足りず、留年。しかし、この2単位不足の留年が私をいい方にすすめてくれたのです。

 

休学し、何とか復学。大学の構内を1人で歩いているとふと掲示板に目がいきました。中庭に貼ってある小さな掲示。そこの掲示板は正式なものではなく、つい見落としがちでした。そこに「数学科編入生募集」とあったのです。

 

私はすぐにS教授の元へ駆けつけました。教授は「去年、転科は駄目だと言われましたよね?そのような掲示があるのですか?では、チャレンジしてみて下さい。書類が必要であればすぐに書きますよ。」

 

教務課に出向き、説明を受けました。「ああ、あれは数学科の方から頼まれたので貼っておきました。必要な書類を書いて提出してください。」私は一度教務課の方に駆けあっているのになぜ電話の一本くれないのだろうと不審に思いましたが、判定に響いてはいけないので言わずにおきました。

 

そして編入学試験に合格。晴れて念願の数学科に移ることができました。当然S教授も喜んでくださいました。あっという間に卒業を迎えることになります。「卒業後も時々でいいので私のところに顔を見せてください。」

 

ところが、S教授の体調に異変がおきます。定年退職後に非常勤講師をされていたのですが、教授という職の重圧から解放され、次第に体調を壊すようになられたのです。大阪の病院で肺を手術され、闘病生活が始まったそうです。

 

大学卒業後から約12年経ったころ、S教授から電話がかかってきました。「少し、体調が回復しました。宜しければ私に会いに来られませんか?」

 

私はS教授に会いに行き、レストランで食事を一緒に食べました。「私がよぼよぼの姿を想像されたと思いますが、思った以上に元気でしょう。この本をプレゼントします。

いい本ですよ。」その本は、警察官が飲酒運転を起こし、その後クリスチャンになったという話でした。大変いいお話だったので何度も何度も読み返しました。

 

最近S教授が書かれた闘病記を購入したのですが、実はこの時、もう既にS教授の体調は相当悪かったようです。私に悟られまいとして精一杯の元気さをアピールされていたのでした。

 

それから数年後、年賀状も途絶えました。S教授は現在も闘病中のようです。S教授の病が少しでも軽快されるのを祈りたいと思います。

 

 

第72話 サッカー青年たちの青春

今回は、第72話「サッカー青年たちの青春」です。

 

私は、スポーツに疎く、正直よく分かりません。ただ、縁あるスポーツとして「サッカー」を挙げます。それは・・・。

 

今から数年前のこと、無名だった高校がサッカー全国大会に出場し、見事、準優勝を決めました。そのとき、画面でインタビューされている監督の姿が映ったのですが、なんと昔の同級生でした。一瞬見間違えかと思いましたが、ネットで検索してみると間違いありません。彼とは同級生というだけで友達ではなかったので、監督をしていることすら知りませんでした。全くつながりがないようにみえる監督と私、実は間接的につながりがあるのです。もちろん、同級生というだけではありません。

 

監督を仮にF監督と呼ぶことにします。F監督は今から約25年前にその高校の教員兼サッカー部の監督となりました。その当時はサッカー界では全く無名の高校。その高校の監督を引き受けて約20年で全国大会で争うレベルになりました。そして準優勝という栄誉ある結果を得たのです。全国優勝まであと一歩というところでした。

 

そしてF監督は功績を称えられ、全国大会での準優勝後、その高校の校長にまで昇進しました。誰も見向きもしなかった頃からサッカー部を支え、全国レベルにしたので、努力は並々ならぬものがあったでしょう。心が折れたこともあったと推測されます。F監督の満面の笑顔をテレビで見たとき、私も大変気分が爽快になったものです。

 

では、冒頭に申し上げた、F監督と私の関接的な繋がりについてお話ししたいと思います。実はF監督が学生時代に私の学校でサッカー部の顧問をされていたのが、前話の「恩師からのメッセージ」でお世話になった数学のA先生。A先生は数学の教員であるとともにサッカー部の顧問としての顔も持っておられました。私は、A先生がどのようなサッカー指導をされていたが存じませんが、天国のA先生もF監督の活躍を喜んでおられるでしょう。

 

私とF監督との間接的な繋がりというのはこのA先生を介しての繋がりです。F監督の活躍ぶりを心から喜べるのはこのためなのです。

 

折角ですから、私の恩師、A先生のサッカー部の顧問という、私との繋がりをもう一つ述べておきたいと思います。

 

私が大学卒業後に学習塾で受け持った元気な小学生の男の子C君がいました。大変頑張り屋で体調を崩してまでも受験勉強をする生徒でした。C君が私の母校を受験し、見事に合格。そして私の後輩になりました。C君が在学中に、Y先生と社会科のT先生を訪ねて母校を訪問したときのことです。1度C君が私に連絡をくれ、T先生が学年主任をされていることは知っていました。その話をしているとA先生が「あいつはサッカー部で。頭はすごくいいけどな。でも、結構悪いので有名や。おまえはどういう教育をしとったんや。」と冗談交じりに話されました。内心私は「素行まで教育するのは僕の役目ではないし。どちらかと言うと先生の役目でしょう。」もちろん、こんなことは言いませんでした。C君はまじめな子だったので、素行が悪くなっているとは夢にも思わなかったのです。まさか、彼がA先生にサッカーの指導を受けているとは・・・。

 

サッカーの道と数学の道。一見関係がないように思えるかもしれませんが、間接的に繋がっているのです。

第71話 恩師からのメッセージ

今回のお話は第71話「恩師からのメッセージ」です。

 

私は現在数学の講師をしていますが、尊敬する恩師がいました。残念ながら今年の10月に旅立たれました。恩師が生前私に語っておられたことを書きたいと思います。

 

私の数学の恩師A先生と知り合ったのは、中学1年生のときでした。私はその頃から数学が好きでしたので、授業を楽しみにしていました。その時の数学担当がA先生でした。先生は破天荒な人で、私と全く真逆のタイプの人でした。ただ、何故か気が合ったのです。先生は学校の教員になられたばかりで、私たちは初めての教え子でした。

 

A先生は気分屋な一面があり、生徒の評判もバラバラでした。ただ、教え方には定評がありました。私も先生のように数学ができるようになりたいと心から思っていました。私の学校は中高一貫校で、先生には高校1年まで習いました。あっという間に6年が過ぎましたが、先生とは卒業後も交流がありました。そして私に必ず元旦に年賀状をくださいました。私が一番弟子だったのかもしれません。

 

私が中学の臨時教員をしている時に、あまりうまくいかないので相談にのってもらうことにしました。市内の某有名デパートの角で待っているように指示され、その後居酒屋で食事をしながら話しました。

 

「これ食べてくれる。俺は偏食がひどいんや」そういわれて頼んだおかずを私の皿に次々と入れていかれたのを覚えています。「今日は時間がない。話をはよしようや。」

「何か大事な用事でもあるのですか?」と聞き返したところ、「今からテレビでバレーボールの試合があるんや。はよ帰ってバレーを見たいんや」私は呆気にとられました。「僕との食事とテレビのバレー中継、どちらが大事なんですか?」と聞き返そうと思いましたが、やめておきました。

 

それからA先生の真剣な話が始まりました。「俺はな、お前の実力をかっている。俺の予想ではな、いずれお前と働きたいと言ってくる人間がおると思っている。多分教える仕事や。お前が不器用なのは、よく分かっている。でもな、お前が真剣に教える姿をみせると生徒は必ずついてくるで。俺はそう思う。それがいつのことになるか分からん。でもな、そのために今から準備をしとけ。数学のことは何を聞かれても分かるようにな。一つだけ注意点を述べておく。本代はけちるな。本代をけちるような奴は伸びん。」

 

A先生と直接お会いしたのはそれが最後だったような気がします。私はその後、一旦教える仕事から退きました。ところが、先生の予言通りのことが起こりました。その食事から約14年後のことでした。知人から紹介してもらったパソコン教室で数学を教えてもらえませんか、と言われたのです。

 

昨年の4月のことでした。訪ねていったパソコン教室で経営者の方から「突然こんなことを言って驚かれるかもしれませんが、うちで塾をやってみようと思います。ただ、数学をはじめ理系の科目ができる人がいません。是非、うちで働いてもらえませんか?」

 

A先生の予言は的中しました。先生にいずれは報告しなければならないと思っていました。ところが、毎年来ていた年賀状が突然今年の元旦から途絶えてしまったのです。

そして10月に先生は他界され、私は11月にそのことを知りました。

 

A先生は私に一流の教え手になることを期待されていたと思います。私が先生へ恩返しができるとすれば、それは先生を超える教え手になることだと思います。末筆ながらA先生のご冥福をお祈りいたします。

 

 

第70話「スーパー90歳の謎」

今回は第70話「スーパー90歳の謎」です。私の母が通うカルチャースクールにとんでもない90歳の女性がいらっしゃると聞いていました。頭脳明晰、パソコンの達人だそうです。そのスーパー90歳を巡ってとんでもないことが分かったのです。

 

私の母は週に1度、家から少し離れた場所にあるカルチャースクールに通っています。ここのメンバーにとても90歳にみえない、頭脳明晰でパソコンやスマホの操作も長けているスーパー90歳がいると聞かされていました。その教室で最年長ながらパソコンの作業が必要なときは自ら引き受け、スクールの会費のことなども一人でとりまとめるそうです。私はその方の名前が珍しかったので印象に残っていました。そのメンバーの他の方の名前は一切知らなかったのですが、その方の名前だけは知っていました。

 

ある日の私の職場での出来事です。私の職場は昼間はパソコン教室、夜間は学習塾をやっています。私はパソコン教室にはほとんど関わっていません。パソコン教室は2名で運営され、塾は私も含めて3名で運営しています。私は生徒が来る前にパソコンの整備をしていました。パソコンを見るとそのパソコンを使用している方の名前が出てくるのですが、ある時、先ほどのスーパー90歳の名前を目にしたのです。私は授業開始10分前に固まってしまいました。

 

そして塾長におそるおそる聞いてみました。「その方、すごい人。とても90歳には見えない。意外なところで繋がっているね。」私は塾長に母の知り合いであることは黙っておいて欲しいと頼みました。ただ、いずれはばれるでしょうけどね…。

 

私は、うちの塾長は改めてすごい人であることが分かりました。何といってもあのスーパー90歳のパソコンの師匠に当たるのですから。(一見そのように見えないですが…)

 

私は帰宅して事の顛末を母に話しました。母もスーパー90歳がパソコンの達人である謎が解けたようでした。母も私もお互いにまさかこんな事があるとは.…といった感じでした。

 

生きていると何があるか分からない、そんな事を思わせるような出来事でした。

第68話 姓名判断

今回は第68話「姓名判断」です。私の下の名前は「孝」ですが、私と姓名判断で同じ運命を辿る人物がある日突然訪ねてきたことがあります。苗字は異なりますが、苗字の画数は全く同じ。(私の苗字は2文字ですが、2文字とも全く画数は同じ。)下の名前は私と同じ「孝」ですから、姓名判断が正しいとすると私はこの方と同じ運命を辿ることになります。今現在私はこの方と同じ業界にいるのである意味当たっていると言えるかもしれません。

 

私が生まれる直前のことです。父の友人が、家に遊びにきていました。この友人は、現在広島市の西の外れでカメラスタジオを経営する「K」さん。当時のKさんはまだ売れないカメラマンで、私の両親は応援をしていました。両親はKさんに私の名前をつけてくれるように依頼しました。Kさんは、「分かった、考えとくわ」といつものように軽いノリで引き受けたのです。

 

後日、「「孝」にしよう。きっと親孝行な子になるぞ。」と言い、名付け親になりました。私は「孝」という名前で人生を歩むことになりました。それから社会人になりKさんに再会した際、「おじさんが僕の名前を付けたらしいね。おかげで結構苦労してるんだ(笑)」と冗談半分にKさんに言いました。Kさんは「ほうだったかいの。わしが付けたんかいの。ごめんごめん。もっと苦労しない名前にしておけばよかったの。」Kさんが軽いノリで私の名前を付けたのは明白でした。でもどこか憎めないキャラクターです。

 

ここからが本題です。小学5年生のときのことです。自宅の庭に出ていると一人の中年男性が訪ねてきました。「初めまして。私、こういう者です。」と言って、名刺を差し出されました。「S学習院院長 △△ 孝」私は、咄嗟に家の中にいる母を呼びに行きました。「実は孝君をスカウトに来ました。是非、うちの塾で学んで頂けませんか?」母は、「うちの息子と下の名前が同じですね。漢字も一緒ですし。これも何かのご縁だと思いますので、考えてみます。また、後日電話で連絡をします。」

 

その晩、私と母は話し合いました。私は折角のご縁だと思うけれども今通うR学院を辞めたくないという気持ちを伝え、断ることにしました。翌日母がS学習院に電話をし、丁重に断りました。その後、私はS学習院の院長と苗字は異なるものの字画数は全く同じであることに気が付いたのです。私の苗字は2文字ですが、その2文字ともS学習院の院長と字画が同じなのです。「もしかするとこの先生と同じ運命を辿ることになるかもしれない。」直感的に私はそう思いました。

 

時は過ぎ、私が20代後半のことです。ハローワークで仕事探しをしていました。そこで見つけたのがS学習院の講師の募集でした。「あの時のS学習院。よし応募してみよう。」

 

S学習院に応募し、訪ねていくと「あの時のことは薄っすらと覚えています。ただ、あなたはうちの塾の講師に向いていない気がします。申し訳ありませんが、ご縁がなかったことにして下さい。」

 

そして数年後、もう1度S学習院に応募しました。答えは一緒でした。それ以来もう応募することはありませんでしたが、今でも縁のあるS学習院のことは心の片隅にあります。

 

現在の私は学習塾の講師をしていますが、創業時の講師であり、塾の立ち上げに携わったという意味ではあの時のS学習院の院長と同じ運命を辿っているといえるかもしれません。S学習院は現在でも広島で中堅の学習塾として存在しています。

第67話 痛恨のミス

今回は第67話「痛恨のミス」です。1年遅れで開催された東京オリンピックが8月8日、無事閉幕しました。私はあまりスポーツ観戦をしないのですが、ある種目に注目していました。男子400メートルリレーです。出場選手の1人が私の高校の後輩であったため、注目していました。ところが、リレーの最中、まさかの痛恨のミスが起きたのです。

 

400メートル男子リレー。第1走者の多田が第2走者の山縣にバトンを渡す際につながらず、途中棄権となりました。まさかの「痛恨のミス」です。しかし、私は予想外のミスが起きるのも何か原因があるのではないかと思います。それは以前から心の焦りがあったのではないかということです。

 

オリンピックに比べると大したことはないのですが、私も大学受験の際に「痛恨のミス」をしたことがあります。ある大学を受けた際、数学の試験でまさかの事態が起きました。

 

入試科目は英語と数学。英語は無事に済み、数学の試験の際の出来事です。現在は高校の学習指導要領から外されていますが、「1次変換」という分野があります。この分野は学習指導要領の改訂の際に、高校数学の内容に外されたり加えられたりするため、世代によっては馴染みがない人もいるかと思います。第1問にその1次変換の問題が出たのですが、パターン通りの問題であったため、余裕で解けると、たかをくくっていました。ところが、問題を解くにつれて何かおかしな気がすると感じ始めました。

 

あるところまで解き終えた段階で私は問題の読み間違いに気が付きました。点を原点を中心に反時計周りに回転するとどこにその点が移動するかといった問題でしたが、私は点を原点を中心に時計回りに回転すると読み間違えていたのです。「反時計回り」と「時計回り」、たった1文字の違いですが、数学の計算結果は全く違うものになるのです。

 

慌ててやり直しましたが、後の祭りでした。それ以外の問題を解く時間がどんどんなくなり、数学の試験は惨憺たる結果となり、まさかの不合格。まさに1文字違いで明暗を分けることになったのです。

 

それまで、日常でも比較的慎重に物事に取り組んでいた私はなお慎重に取り組むようになりました。まさに「一寸先は闇」という言葉が表すように、生きていると1秒先のことすら分からないような気がします。この時、運よく試験に受かっていたとしたら、今の私は少し違う人間になっていたかもしれません。

 

※1次変換とは、点を点に移す移動のことを言います。(本当はもっと厳密な言い方をしなければなりません。)

第66話 サンデン交通

今回は第66話「サンデン交通」です。遥かかなた昔、この会社のバスに乗ったことがあるのですが、未だに何故か印象に残っています。

 

次期衆議院選挙が近づいてきていますが、山口3区を巡り、現職の河村元官房長官の地盤に林元文部科学大臣が立候補することを表明しました。自民党同士の対決なので、そのままいくと保守分裂選挙となります。林氏は将来総理を目指すと言われており、そのため参議院議員から衆議院議員に鞍替えする模様です。その林氏が議員になる前に勤めていた会社の1つが山口県下関市に本社を置くバス会社「サンデン交通」です。

 

私はこの「サンデン交通」の名前を目にし、脳裏にある思い出が蘇ってきました。

 

今から37年前のこと。小学6年生の私は初めての修学旅行に行きました。その修学旅行は広島から隣県の山口県への1泊2日のバス旅行でしたが、このとき利用したのが「サンデン交通」のバスでした。

 

私の同級生も皆初めての修学旅行でしたので、ワクワクしていました。その時のバスガイドさん、どんな方だったのかよく覚えていないのですが、ある意表を突く行為をされたのです。

 

「私はこのバス会社に入社してそんなに経っていないのですが、うちの会社が大好きなんです。是非、この場でサンデン交通の社歌を歌わせて下さい。」

 

一同、シーンとした中、ガイドさんは元気よく歌い始めました。「サンデンサンデンサンデン交通~。サンデンサンデンサンデン交通~。」

 

私も歌の全容は覚えていないのですが、こんな感じで歌われたと思います。「皆さんの前で歌うことが出来て大変光栄です。有難うございました。これからもサンデン交通を宜しくお願い致します。今回の修学旅行で楽しい思い出をたくさん作って下さい。」その場で大きな拍手が起こりました。

 

予想外のことをして相手にインパクトを与えることを心理学的にどういうのか私には分からないのですが、相手に思わぬことをされると、いつまでも記憶に残っているという好例だと思います。あの時の修学旅行で一番思い出に残ったことは、紛れもなく、「サンデン交通」のバスに乗り、ガイドさんが元気よく社歌を歌ったことだったのです。

 

あの時のガイドさん、その後ずっとサンデン交通に勤められたのかは、私には知る由もありません。あの歌をあの場で歌われていなければ、恐らく私はサンデン交通の名前は忘れていたことでしょう。